ガラガラレイトショーと痴漢の話

 

先日ツイッターで、

「人の少ないレイト回に訪れた女性が男性2人に挟まれ、怯えて映画館を出た」

というエピソードが共有され、大きな話題となった。

https://twitter.com/_yuukixxx/status/937602407718010880 

 

楽しみにしていた映画を、怖い思いをして諦めた方のことを思うと本当につらい。

と同時に、ひどくデジャブを感じた。

 

 

満席の映画館が苦手で、平日の朝やレイトショーが好きだ。

よく行くシネコンのレイトは、公開初期は指定席販売、二週間程すると自由席販売に変わることが多い。

 

わたしが『エージェントマロリー』を観に行ったのは上映終盤頃で、観客が8人もいなかった。

ソロ男性客がほとんどで、真ん中の列に40代くらいの夫婦が1組。

わたしはよく座る前から3列目の通路側席に座っていた。

映画ファンの皆さんならお分かりだと思うが、一般的にはまったくもって条件の良いエリアではない。

ポップコーンも食べたかったなんて思いながらドリンクを啜っていたら、予告編が終わると同時に男の人が隣に座ってきた。

え? 何? と思いつつ、顔を見るのもなんとなく怖くて、気にしない様に努めていたら、

マロリーが話をするシリアスなパートに入った瞬間、男性が大股開きにしていた膝をわたしの膝に寄せて、とんっとんっと小刻みに当ててきた。

この時点で正直もうアレレ?の域を超えていたのだけど

「まさか、週2で通っているような劇場で?」

「ちょっと強めの貧乏ゆすりかな?」

とかどうにも疑念が拭えなくて、声を出せなくて。

ドリンクを持っていない方の手がひんやりとして。

 

タイツをスリスリと手で撫でられたところで、

これは!!!!!本当にアウトなやつだ!!!!!

とハッとして逃げ出そうとして前を向いたら、スクリーンの中でマロリーが敵に固め技(?)していて、

怖さ以上に怒りが湧いてきたのを今でも覚えている。

 

「何故こんな奴の為に劇場を出なくてはならないのか!?」

 

劇場スタッフに悪いと思いながらも、唯一動かせた手から持っていたジンジャエールをわざと床に落として、

小芝居打ちながら夫婦ペアの近くの席に移動した。

 

でも結局、痴漢相手に小芝居でも「すみません」と言ってしまったことが悔しくて悔しくて、ジュースを館内で故意に零したことが申し訳なくて、映画の内容は頭に入って来なかった。

 

劇場のスタッフには上映後平謝りした。

(窓口のお兄さん、真夜中にほんとすみませんでした。)

 

当時わたしは一度だけこの話を居酒屋ジョークとして昇華しようとしたのだけど、

「…よくレイトショーに一人で行くんだけど」と切り出したところで

チャラ男に「女の子なんだから夜は危ないよ〜?」と“優しい”言葉を掛けられてしまって、何も言えなくなってしまった。

『ほらね』とか『だから言ったでしょ?』と思われるのがいやだった。

 

わたしがギャルっぽい格好だったのがいけないのか。

“女の子にも関わらず”一人で夜の劇場にいたからいけないのか。 

 

こうして過去の話を思い出すたびに

「何言ってるの? アンタはその劇場、朝昼も通ってるのよ!?」

と自分にビンタかまして、床ではなく痴漢にドリンクぶっ掛けて中指突き立ててお巡りさん呼べばよかった、と後悔の念を抱きながら、同時に“恥のようなもの”を抱えていた。

 

映画館には相変わらず通っていたけれど、思い出すだけでイヤな気持ちになって人には話せなかった。

電車なんかとは違って、映画館という大好きな場所だからか、わたしがそこに行くことを否定されるのがイヤだった。

 

 

他人がシェアした話には怒り、声を上げることができるのに、今でも自分が痴漢にあった話をすることには抵抗がある。

「痴漢」という言葉が怖い。

自分が痴漢にあったのは恥ずかしい、という認識を変えることが難しい。

 

この感情は、男女関わらず性的な被害にあった人の中に大なり小なり燻る感情なのではないか、と気付くのにわたしは数年かかってしまった。

今回この話をシェアしなければならないと思ったのは、ワインスタイン事件から巻き起こった告白ムーブメントの影響も少なからずあるが、声を出してエピソードを話す事で、“恥”の意識を利用する加害者への警告になるかもしれないと思ったからだ。

 

件のツイートのリプライには、いつも通り「自意識過剰」や「勘違いされる男が可哀想」といった、見知らぬはずの痴漢マンを可愛がる人々が見受けられる。

その言葉を発した人々は何も考えてないだけかもしれない。きっと事件に興味を持っただけで、彼らの発する言葉・視線に怯える人がいる可能性なんて想像をしたことがないのだ。

 

しかし、そもそも、嫌な目にあった人が「本当にそんな事件は起きたのか?」と他人に事件を吟味され、

且つそこに至るまでの自分の行いをジャッジされるなんて拷問を受ける必要がどこにあるのか?

 

ここ数年で大きく変わったと感じるのは、痴漢擁護のリプライを見る皆の視線だ。

自分はする必要のない「自衛」や「寛容」を他人に強いる人々に対し、人々が批難の声を上げ、またそれを受け止める社会の枠組みが出来始めたことに(たとえそれがネット上のほんの小さな一部であっても)ほっと息をつくことができた。

 

女性も男性も、怖い目にあった時、自分の勘違いではないか?なんて疑って怯えを受け入れる必要なんてない。

危険だ、こわい、おかしい、と思う自分の勘を信じて、逃げ出していいのだ。声をあげていいのだ。

少しずつだけれど、その声を受け止めてくれる世の中に変わっているはずだから。

もし世の中がダメなら、わたし達が受け止めていこうではないか。

 

 

最後に、普段から見知らぬ痴漢マンの冤罪を懸念する皆さんへ。

まず、痴漢をしたのは貴方ではない。疑われてるのも貴方ではない。

次に、貴方が恐ろしい性犯罪に巻き込まれた人のエピソードが信じられないのは、ただ知らないからだと信じたい。

そして、貴方だけではなく、誰もが好きな時に、好きな場所に、好きな装いでいられる社会でなければいけないことを受け入れて欲しい。

 

 

みんなが人にも自分にも優しい世の中になりますように。

 

まっくる